私は、勤務していた会社への復職を目指して、障がい者でも生活や就労できるように、埼玉県所沢市にある「国立障がい者リハビリテーションセンター」に入所しました。
「視覚障がい」(弱視)だったものの、歩行困難で車いすを使っていたことから、車いすが使えるフロアで生活をしていました。
私は2007年12月に同センターに入所しましたが、視覚障がいのフロアに2人、私のフロアには3人の訓練生仲間がいました。
視覚障がいのフロアにいた訓練生は女性で、一人が当時60代で、もう一人が千葉県在住でしたが、国籍が「フィリピン」でした。
私は、60代の方とわりと近所に住んでいたことから、仲良くなりました。
もう3人は、同じフロアにいる「高次脳機能障がい」を持っており、そんな状態でしたが、最低でも人並みの生活をして、将来は「就職」という高い目標がありました。
私を含めての訓練生仲間は、リハビリのスケジュールが違っており、私が先頭に立って、全員の時間を把握して夕食後の「自由時間」でよく会っていました。
そんなこんなで、私は復職に向けてのリハビリのカリキュラムが増えて、会社からどのように復職につながるかと決めて、2009年8月末での卒業が決まっていました。
視覚障がいの女性達も2009年3月末での卒業が決まっていました。
同じフロアの3人は、2009年秋の卒業といわれていました。
私は復職へのカリキュラムが忙しく、その頃から訓練生仲間同士で会うことがめっきり減りました。
2009年2月に、私が同じフロアの訓練生を集めて「私達だけで二人への卒業式をしないか。」と声をかけたら、3人は快く「卒業式、やろう。」とのり気でした。
卒業式で渡す「卒業証書」は同センターからあるので、私達は「もの」(記念品)にしました。
女性の訓練生は、「軽音楽部」に所属しており、2008年末の「コンサート」の時に撮影した「写真」を2Lサイズに焼き増しして、写真を入れる「フレーム」(写真立て)を同センターから徒歩20分のところにある「百円ショップ」で買いました。
撮影した写真を写真縦に入れて渡すだけでは、納得いかなかったので、訓練生仲間に頼んで、「寄せ書き」のように写真縦の外箱に書いて頂きました。
その時に使った「サインペン」は、私が百円ショップで買っており、写真縦だけでも立派な卒業式になるだろうと感じていました。
それから、私は当時休職中の身であったことから、本社に行って「状況報告」をしてから、昔からのなじみの店に行って「おせんべい」を買いました。
また、それと同時に、福岡県の「八幡製鉄所」近くに美味しいお菓子があったので、インターネットショッピングで買いました。
ようやく、二人への卒業式の準備を終えて、あとは本番の日を迎えるだけになりました。
そして、二人の同センター主催の卒業式が開催され、二人が自宅に戻る日を聞いて、その前日の夜にお会いできませんか。と言うと、二人は「帰り支度で忙しいけど、会いましょう。」と快諾して頂きました。
そして、小規模だけど二人だけの卒業式をしました。
信仰は私が務め、訓練生仲間は卒業生と在学生と別れました。
二人が部屋に入った途端、百円ショップで買った「クラッカー」を鳴らして、在学生と私で「卒業、おめでとう。」と二人に声を掛けました。
二人は驚いた様子で、「まさかあなた達から卒業のお祝いをしてもらえるとは思わなかった。」と驚いていました。
そして、同センターから卒業証書を頂いているので、それぞれの記念品を渡しました。
記念品を渡した時に、フィリピンから来た訓練生の目に光るものがありました。
記念品を渡し終えると、まずは在校生から卒業生へ一言を頂き、在校生から卒業生への「贈る言葉」がありました。
私も在校生なので、卒業生にあいさつをしました。
今度は卒業生から在校生にあいさつを頂きました。
フィリピンから来た訓練生から「フィリピンから来て、外国人なのにここまでしていただけるとは。」と号泣しました。
私は涙をこらえて「そんなことはないよ。これから楽しい生活を送ってね。」と言うともう一人の卒業生と在校生も号泣していました。
最後に60代の卒業生から「小さな卒業式を開いてくれるとは、本当にありがとう。」と言い、また号泣していました。
そんなこんなでしたが、小規模な卒業式を終えて、お互いの住所と電話番号を交換して卒業式を終えました。
二人の訓練生が卒業していきましたが、このような卒業式を行なえるとあって「うまく感動できたかはわからないけど、二人の心と在校生の『絆』は強くなったはず。」と手ごたえを感じました。
その後、訓練生仲間はそれぞれのカリキュラムが忙しくなり、私も含めて同センターを卒業時期と、復職の準備で多忙になったことであの卒業式を最後に会わなくなってしまいました。
私は障がい者になりましたが、感動することは絶対に成功させる。といういきごみがあったこそ、訓練生仲間と共に通じ合ったところはあったと感じています。
小規模でしたが訓練生仲間への卒業式
